ときめきマシンガン

夢見がちな性格なので教えてほしい

「デスノート The Musical」が好きすぎる それから「2.5次元舞台」の話

デスノート The Musical」が好きすぎてずっと考えてる。
な、なんでこんなに琴線を刺激されてるんだ……自分でもよくわからないけどとにかく好き……!!!
なのでこの気持ちを忘れないうちに書いておく。勢いで残しておかないと幻みたいに消えちゃう。

デスノート DEATH NOTE THE MUSICAL
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おなじみの漫画「DEATH NOTE」を原作にした舞台。まったく同じように原作をなぞっているわけではないけど、おおまかに言えば「L編」。月とLの攻防を中心に、2幕3時間に詰めこんできてる。

とにかく音楽が超かっこよくてテンションあがる。
日米合作なので音楽、歌詞、脚本はブロードウェイの売れっ子クリエイターを招聘してるのですがとにかくフランク・ワイルドホーン氏の音楽が、この厨二っぽい世界観にマッチしていてよすぎる……。
Creators Vol.5『デスノート』作曲F・ワイルドホーン [ミュージカル] All About


アイヴァン・メイチェル氏の脚本も個人的にはものすごく好み。原作のおもしろさって夜神月とLの細かすぎる攻防の描写、陥れながら出し抜きながら、っていうギミック的な部分だし、舞台だとそういう細かいことをいちいち説明しているわけにもいかなそうだから一体どうするんだろう?と思ってたんだけど、ちゃんと人間ドラマになってた。あれだけ煩雑な話なのにこんなにきれいにまとめられるんだって思った。

2人のバトルの他に、リュークと月のドライな距離感、ミサのキラへの狂信、レムからミサへの一方通行の情愛、夜神総一郎の息子に対する葛藤、そういうものにそれぞれちゃんと背景が付いてる。キラが成り上がっていく様を野次馬のように見てからの、終焉のカタルシス。ラストが美しい。いやわかんない、いろんな見方があると思うけど、わたしは、めちゃくちゃ美しいと思う。

演出を頼まれて、初めて漫画を読んだとき、最初に考えたのがどんな音が聞こえるかだった。この作品の第1章のテーマは“退屈”だった。

“舞台演出家”栗山民也が語る「デスノート」韓国版と日本版の違いは?(総合) - ENTERTAINMENT - 韓流・韓国芸能ニュースはKstyle

演出の栗山民也さんが繰り返し言う「退屈」って言葉がすごくおもしろいなって思う。原作読んでてあんまり浮かばなかった言葉が舞台を見ると常に横たわってる。これは現代日本を切り取るキーワードの1つだ、じゃあ舞台と現実の空気や気分をどうつなげていくか……って話をパンフレットではもう少し詳しく話してて、おもしろい。デスノートをそんな角度から考えたことがなかったから10年経って改めていろんなことに思いを馳せる。

原作、2003年にスタートしてるらしくて、考えてみたらこの時自分はリアルに中学2年だったわけだ。14歳。年上だった夜神月はいつのまにか年下になっていて、(スーパー優等生という意味では非凡だけど)普通の高校生の「退屈」をもう少しリアルに想像できる。


夜神月がWキャストなのもよい。

「幼稚で負けず嫌い」、夜神月は原作でも劇中でも何度かそう評されるんだけど、今までいまいちピンときてなかったこの言葉が役者を通してやっと理解できた感じした。どっちも正解……というか、こんなに要素分解できるキャラクタだったんだってことがすごい新鮮。

対峙するLもすごい。小池徹平さんすごい。

映画版の松山ケンイチのLの再現度がすごかったし、ミュージカル畑の人でもないし、キャスト発表時は不安の声の方が大きかった気がするけど、本当にすごい。痩せた体と虚空を見つめる目。歩き方も振る舞いも全部L。カーテンコールで小池徹平が突然あらわれてびっくりするくらい。

歌もすごいかっこいい。何度も歌詞を変えて出てくるLのメインテーマは結構音とるの難しそうな旋律だけど、印象的なフレーズ多くてしびれる。「これはゲームだ、サイは投げられた」って歌詞がなんだかよくわからないけど理性を超えた部分で猛烈にすき……。


これの、1分過ぎくらいから。この映像ゲネプロなのだろうか……舞台で見るともっと全然うまくなってる。キャスト陣がそれぞれフォーカスされてて大変見やすいダイジェストで、公式様ありがとうございます。


あとは吉田鋼太郎さんのリュークが本当に最高。コミカルとシリアスの振り幅にひれ伏すしかない。ドラマで見たことしかなかったから歌がかっっこよくて泡吹いた。ミュージカル初めてなんですよ~お手柔らかに~っていろんなところで言ってるけど全然そんなそんな!! 狂言回しとしての温度感、飄々とした態度が最後の最後で激烈に効いてきて脳天殴られる。

濱田めぐみさんのレムも、唯月ふうかさんの弥海砂も、一歩間違えると利用されたバカな存在になっちゃう立ち位置だと思うんだけど、ちゃんと決断と覚悟を感じる。ちゃんと月がクズに見える。歌もすごい好き。


東京は29日までで、そのあと5月に大阪と名古屋にも行く。S席1万3000円だし気軽にどうぞとは到底言えなすぎるんだけど……だけど……!
公式の動画がいろいろあるので貼ります。一番上のゲネプロのやつが、舞台や楽曲の雰囲気ををつかみやすいかもしれない。

「2.5次元」の距離

ここからは「2.5次元舞台」の話。最近増えてる、アニメや漫画を原作にした舞台作品の総称のこと。

「原作に忠実」って言葉、ドラマでも映画でも舞台作品でもよく聞くフレーズなわけだけど、この演目はそういう意味では「忠実」ではないと思う。でも世界観は濃縮還元て印象を受ける。というか、切り取る場所、フォーカスする場所が限定的で潔い。だからといって客をなめたり切り捨ててる印象も受けないし、その度胸(と言い方が正しいのかわからないけど)が超かっこいい。鮮やかな二次創作でフィギュアや箱庭のような再構築。単にわたしのセンスと合うってだけな気もするけど、だからこんなに思い入れてるのかもしれないけど。

舞台観て、「これは、読まなきゃ」と思って12巻一気に読んで、もう1回舞台観た。キャラ解釈がどうのって言えるのって、原作が中心にあって、演者も観客も外側にいることは揺るぎないからなんだよね。その観点で言えばある意味同じ立場になる。解釈「する側」になる。

でも「これが理想の○○!」って体現してくれるのが必ずしも100点なわけじゃないのが難儀なところだ。「なるほど、こういう見せ方もできるんだ」「そういう言い方をさせるんだ」ってところで納得感あるものだとすっっごくおもしろくて、こっちも考えさせられて、演者を通して理解が深まるし好きになる。逆に反発することだってある。「解釈違い」が客席とステージの上とで平然と起きる。

普通の舞台だと基本的にはキャストを通してその役を理解するわけで、そのキャラクタに対する好悪とか演技に対する(それももちろん、解釈のいち側面ではあるわけなのですが)印象になるから、観客の立ち位置はちょっと違うように思う。近いのは、他のキャストによる同じ演目の比較とかでしょうか。それこそWキャストなんてそうするためのものだし、宝塚歌劇は再演も役替わりもあるからこのパターンで「解釈違い」が起こることがままあって、いろいろ聞くのはとてもおもしろい。とはいえ、あくまで相対的な意味合いが強くて、それぞれの心に存在してるそれぞれのイデアと照らし合わせることとは多少ニュアンスが違う気がする、自分を省みても。

よく「なんでいまさらデスノートのミュージカル化なのか」という疑問を持たれます。私にはこの「いまさら」という感覚が無いのですが、原作の連載が終わってまだ10年しか経っていないというのが実感です。
ブロードウェイやウエストエンドで上演されているロングランミュージカルで言えば、「オペラ座の怪人」は100年以上、「リトル・マーメイド」や「レ・ミゼラブル」は160年以上、「美女と野獣」は250年以上前に原作が発表されています。これらのミュージカルが発表された時、あるいは見ようとするとき、「いまさら」とは思わないでしょう。

世界中でアンデルセンの「人魚姫」やルルーの「オペラ座の怪人」や、ユーゴーの「あゝ無情」の原作本を読んだことない人がミュージカルを観ているように、「デスノート」もそうなってくれれば

堀 義貴 - よく「なんでいまさらデスノートのミュージカル化なのか」という疑問を持たれます。... | Facebook

ホリプロの堀社長のFacebookより。
そりゃねえ、実際そんなうまくいくかはわからないけれど、でも本気で「輸出」する気のアプローチで作るとこれくらいいい意味で切り離すことが必要なのかもしれない。物語の大枠はなぞりながら、その中でフォーカスする要素がかなり絞られてる。

デスノートは、距離感がおもしろかった。リスペクトする元と、そして客と。海の向こうの人が脚本を書いているという面もあるのかしら。なんだろう、「原作のあて書きになってない」感じ。キャラを立たせることが至上命題じゃない感じ。うーーんうまく言えない。

なんだかまとまらなくなってきた。つまり「原作に忠実」ってあまりに普通に使ってしまうけど、原作を知ってることや比較することを前提にしすぎた見方なのかもな~と思ったということでした。忠実かどうかなんてそもそも知らない人にはわからない。じゃあその外に飛ばすにはどういう角度で攻めるべきなのか。むしろそもそも飛ばす必要あるのか。誰をお客さんとして想定してるのか。そういうことをいろいろ。